当神社創建の年代は明らかではありませんが、社伝によれば、この地方は昔、わが国最初の東海道に沿い、大和宮廷から(伊勢)神宮への勅使往来の通路でした。
更に家城から奥の地は岩野郷と称して、磐之媛皇后の御領地で、仁徳天皇はこの郷の開拓に努められました。
そこで履中天皇の御代(西暦五世紀初)郷民が、仁徳天皇及び磐之媛皇后の御遺徳をお慕い申し上げる余り、伊勢平野を見下ろす修験業山の麓この川上の清地を選んで御社を設け、お二方の御魂を祀ったのが日本最古の当若宮八幡宮であると伝えられています。当社殿創始は前述の様ですが、それ以前太古より修験業山の自然の磐座たる高宮に鎮座する国津神、天津神、八百萬神を尊崇してきました。これが当社創建の淵源であります。
その後、伊勢の国の国司代々の祈願所となり、北畠氏は当社の加護を頼って隣村多気に居城を構え、奥城剣ケ峰城の鎮護神として春秋の大祭には国司自ら参詣し、新政は先ず神意に計って実施するのを常としてきました。
その尊崇の如何に篤かったかは、神領を献じ、鳥屋尾家老を常置の奉行とし、古来から奉仕の由緒正しい岡野神主家に太府号を授け、その住宅から奥は関を設けて一般の参拝を禁じ、当社の尊厳保持に努めたこと等によって知ることが出来ます。
従って当社の信仰は、六十万国といわれる両国の庶民の間に普く滲透して行なったものと考えられます。
江戸時代に入り、藤堂家が藩主になった後も、その尊崇の念は北畠氏の故事にならって極めて篤かったようです。
それ以後も「川上山」「若宮様」「川上八幡様」「若宮八幡様」と愛称され、全国の多数の人々より信仰されています。